最近ツイッターの本アカウントをプライベートアカウントに変更しました。
ほぼこのブログは本アカウントの140字に収まらないことを書く場所なので、過去ツイートの引用も多い中でアカウントの紐づけが弱くなるのは好ましいことではないのですが、整った言葉はこちらで発信し、ツイッターはただの散文に留めて良いな、と思った次第です。
代わりに とにかじ!! (@tonikaji_update) | Twitter が別ブログ「 とにかく○○しない家事 」の更新通知等で頑張ってます。そっちだけでいいです。
何でアカウント設定を変えたのか
ある日のこと、著作も多数あるインフルエンサーの方についてつぶやきましたら、なんとご本人から引用リツイートされまして、大急ぎでツイートを消した、という一大事がございました。
なんというか「もう炎上したくない」と脊髄反射で思ったのでした。
引用リツイートって怖いですよね、
自分の意見が曲解されようと、引用先の意見が付随してその引用先のタイムラインにながれ、引用先は引用先の城なので私の意見なんてボッコボコですよ
かつてこういう気持ちにもなりました。
簡単に言うと「Twitterこわい」となりました
何でSNSこわいになったのか
Twitterの中の意見の勃興も二周三周して、クラスタが「もう固まっている」印象を持っています。
幼児用ハーネスはアリだ!母乳神話やら三歳児神話なんてくそくらえだ!現金給付して!所得制限撤廃して!!
上記意見は私も意を同じくするところなのですが、ここに反対意見の一つでももたらされたら。
皆一様に否定の意見を返すのです。当たり前のことでもありますが。
私たちは「もう固まって」しまっていますので。
いわゆるエコーチェンバー、フィルターバブルです。そしてチェンバーの中、バブルの中は心地よいのです。
意見を同じくする者同士の結束には安心を覚えますよね。自分の言葉足らずに否定の意見がついても、フォロワーさんや同属性のアカウントから擁護の意見が投げられる。そして意見は先鋭化していきます。
それが社会の成熟でもあるんでしょう。Social Networkingとはそういうもんなのかな、と。
異なる意見は異なる意見同士で先鋭化してぶつかり合えばよい。政治に右派と左派が出るのと同じ。どの国でも右左があるのは、行き着く場所がそこだという証左だと思います。
「ゆるいつながり」を懐かしむ
Twitterを始めたころは2010年でして、そのころは本当にミニブログでした。ねむいやら、ただいまやら、○○なうやら、△△だん、やら。ライフログともいいました。
なおTwitterを始めた当初は彼氏に会いたいことばっかり呟いてました。今となっては夫の帰宅時間に文句をつけるばっかりです。人生変わったものです。
育児が始まり、いわゆる育児アカウントになり、月齢タグでつながりができていき、そしてだんだんと自分の意見が尖っていった。それはそれでライフログなので否定はしませんが、やはり少し、怖いですね。
ゆるいつながりが懐かしい。
良いこともあったし、これからも多分良いことがある
過去を懐かしむ気持ちは強いですが、最近だってSNSでいいことはあったし、何より私はツイッターで趣味の再発見をしましたし、新しい好きなものを見つけていきました。
多分これからも新しい好きなものに出会ったり、自分を再発見することと思います。
だからプライベートアカウントながらもTwitterに文字列として存在し続けるでしょう。
くまのプーさんの絵本をよく図書館で借りて子どもたちと読むのですが、意外と登場人物オールボケでツッコミどころはどこなんだと困惑するのみです。
その中でも上掲「
「ぼく、このままでいいのかなぁ」とプーさんがクリストファー・ロビンに問いかけ、
「そのままでいいんだよ」と答えをもらうシーンがあります。
アカウントが変わったところでひとが変わるでもなし、
毎日黒ワンピースを着ている自分が白のワンピースを着始めたわけでもなく、私は私でそのまんまです。