私の/夜中の考えごと

働き方や子どもとの暮らし:夜中に考えていることを書いています

私も「本来必要な支援が届かなかった」大人なんだった

Kindleで読んだ「ケーキの切れない非行少年たち」(宮口幸治)を読んで、感想を書きあらわすうちに、昔の自分も思い出した話です。

ケーキの切れない非行少年たち(新潮新書)

 

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ここで言及した「本来必要な支援が届かなかった」ということ。これ、私にも言えることだ、と気づきました。

双極性障害Ⅱ型の診断が付く前は「うつ」「心身症」「適応障害」いろいろとぼんやりした診断名がついていて、投薬治療となったらうつ病のパターンで進められました。抗うつ薬の名前は一通り知った。4−5年、もっとそれ以上でしょうか。ただただ「私はこんな人間じゃないはずなんだけど」と窓の外を見ていた日々を思い出します。

 

双極性障害の軽躁の波に乗るまま転職したり引っ越したり、結婚したり子どもができたり、精神科との距離は遠ざかりました。

しかし双極性障害Ⅱ型の当事者であることは変わらず、それを自認しないまま「死にたい。死んでしまいたい。夫と離婚して一人で静かに暮らしたい。でも子どもたちを思うと死ねない。死ねないのがつらい。辛くて死にたい」と繰り返していました。

第二子産後はクッキリと鬱フェーズの状態になったこともあり産後うつと思いクリニックに向かいました。そこでやっと、「双極性障害Ⅱ型」であると分かり、自分は障がい者であることが分かったのでした。

次いで障害の症状を自認し、適切な治療を受け、適切な福祉につながることができるようになったのです。

 

そして治療を進めて知ったことには、双極性障害の治療において抗うつ薬の処方は症状の改善につながらないどころか悪化するということ。

しっかりテストや聞き取りをされることもなく「鬱ですね」とされ、本来必要な支援(投薬治療)が受けられなかったこと、そして苦しんだあの日々を思い出して掘り起こし、少し苦しくなってしまいました。

 

よく死ななかったな、と思います。

食欲もなく、炊事も何もかもする気がなく、46㎏の体重が37㎏にまで落ちたときもありました。毎夜、当たり前のように手首を切って「この程度じゃ死ねないんだよなぁ」と涙も流せずに明けた夜がありました。

「どん底から這い上がった」とか評価される努力もしてません。ただ漫然と生き延びた。心のどこかに「命を繋ぐ意思」があったのでしょうか。

 

希死念慮は今も疲れたら出ます。「疲れたなぁ」の代わりに「しにたいなぁ」と思います。これは病気なんだと、障害を自認していてもなお。

当時はその自認もないまま「もう死にたい。」と人に言おうものなら「すぐ死にたいとかいうんだから」と笑い飛ばされ「お前が死にたいというその時ですら、生きたかった人が生きられなかった時間だ」とか叱られ、辛くてしょうがなかった。

私が双極性障害Ⅱ型の当事者であることは、うつ状態の発症から今の今まで変わらないのに「本来必要な支援」に届かないまま数年が無駄に過ぎていった、それを思うと歯がゆく、辛く、もっと早く必要な支援にたどりつきたかった、と悔やむばかりなのです。

 

とりもなおさず、結局私は必要な支援、必要な福祉につながることができました。

そして改めて気が付いたことは「今も『必要な支援が届かない人』がいる」ということです。

自分が体験した苦しみの日々を今なお味わっている人がいるかも知れない。

 

自分にできることは何でしょうか。社会活動をするにはまだエネルギーがたりません。カウンセラーになれる素養もありません。

せめて、せめて、という思いで、私は自分の障害のことを書き続けていきます。

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