子どもには程好い学歴を得てほしいと思うのは親心の一つとしてよくあることでして、うちも例にもれず、親の通ってきたルートを進んでほしいなと思うタイプです。
親の通ってきたルートは「オール国公立で国立大」なのですけど、今この首都圏住みの状況で、娘たちはその道を歩むことができるのか。
何にせよ親二人ともが「九州のド田舎」で「国立大進学に厚い指導をする進学校」に通い「都内の国立大学」に進学しそれぞれの最終学位は修士号、というほぼ同じ進路をたどっているので、進路と学歴についての考え方に多様性が全くないのです。
「多様性のなさ」に思うデメリット
まず「子どもの将来」についての多様性がない。
大学進学がまず通過点となってしまっているから、もし子がパティシエにあこがれて専門学校に進みたいと言ったら、素直に背中を押してあげられるか自信がない。「まず大学で専門性を磨いた方がいい」きっとそう言ってしまうだろう。まず今の時点では、そう思ってしまう。
でももしかしたら、今後就学して子どもの好きなことや得意を次第次第に是認していって、この子はパティシエに向いてるな、と思えるようになったら、そういう考え方も雲散霧消していくのかもしれない。
子育ての先輩方、いかがでしょうか。そこらへん。
都市部の「普通」と地方のそれが違いすぎる
この件を考えまくってその次に思ったのが「自分が育った環境と、子どもが育ちゆく環境が違いすぎる」ということ。今この首都圏の「普通」の子どもってものは、生まれたときからスターバックスコーヒーでコーヒーを飲む親に付き合ってオレンジジュースとかを飲むことができる。大学一年生のときに首都圏出身の子が「フラペチーノ美味しいよね」とスラぁっと私の知らない美味しいものをさも普通の経験として語ったのが今でも衝撃なのだ。それくらい私の育った田舎には何もない。
そういう衝撃をまとめたのがこのツイート。
首都圏出身の同級生各位
— 伏黒たかえ🦭WFH w/5y+2y (@tk_e) 2020年6月20日
・入学時点でTOEIC700↑
・五人に一人は海外留学経験あり
・帰国生徒(18-9にしてマルチリンガル)
・小〜中学から電車通学
・中受当たり前
・徒歩か電車で生活が完結するので自転車に乗れない(乗る必要がない)
・高校生のうちからスタバでフラペチーノ飲んでた
なんてこった…
他にも館山に別荘とか大型犬の多頭飼いとかいろいろスゲェ…と
— 伏黒たかえ🦭WFH w/5y+2y (@tk_e) 2020年6月20日
上掲のことが首都圏の「普通」であるけど私の育った田舎では地域の有力者ファミリーにしか許されぬ事象の数々である(スタバはないが)
これらのことと小学校帰りにげんげ畑でげんげの花冠を作って遊んでいたことは同列に出来ようもない
wakanachi3さんによる写真ACからの写真
上掲ツイートで「げんげ畑」と言っていますが、これ方言らしく、標準語で言うとレンゲです。(今回このブログに載せる写真素材を持ってくるにあたって知りました)げんげていったらお魚の画像しか出てこなくて焦った。。
そんなこんな、自分の経験は貧弱に過ぎる。その貧弱さは地方のインフラの未発達、フランチャイズの出店状況などいろいろなところで現れてくる。
そんなの別に関係ないように思うきもちもある。しかし細かな事象の未発達は教育資源の未発達にも比例するように思う。そもそも私は受験予備校に通うことがなかったのだけど(受験用の補助教材として進研ゼミ高校講座は取っていた)それは九州の進学校の進学指導が厚かったということもあるが、そもそも予備校自体が生活圏内になかったためだ。
もちろんSAPIXも日能研もない。
小学生から塾通いなんて想像もつかない。
私がレンゲ畑でほわほわしているうちにも、同年代の子たちは先進的な教育を受けていた。洗練された文化の中で生きていた。
生まれた場所が違うだけで、そら人生が違うわ。そらそうなるわ。
という風にバグってバグって、思考停止。
一息ついて考える。
とにかくは、子どもの成長にしたがって、まずは義務教育の修得を見守り、だんだんと高校も見えてきて、そのうち自分で進みたい道を見つける子どもをただ見守り、資金的な援助をし、身近な成人としてのアドバイスをするだけ、ということになるんだろうか。
そうなるんだろうな。
自分がそう見守ってきてもらったみたいに。そうなるんだろうな。