ほぼ黒ワンピース生活

ほぼ毎日黒のワンピースを着ています。考えたことなどあれこれと。

「理想の子ども」に思うこと

「子どもをちゃんと躾けろ」ていう「理想の子ども」を心のなかにお持ちの方のご意見に触れて、そもそも「理想の子ども」ってなんだろうなと考える夜です。

 

 

6s-adviser.hatenadiary.jp

 

こういうことを考えていたのが数週間前で、思考がぐるりぐるり回って世間一般の思う「子ども」とは一体どんな存在なんだろう、と考えるようになった。

 

一概に「良い子」と称されるのは、

「よく寝るいい子」「好き嫌いなく(適切な量を)食べる子」「礼儀正しい子」他色々あるんだろうけど、子どもをもった今となっては、そういう空想の子どもの像を描けなくなってしまった。

寝るも寝ないもどうでもいいよ。食べる食べないもどうでもいいよ。礼儀、大事だけどそれはこれから身についていくから、まずはこの命を明日に繋がねばならん。

 

長女が「家では食べない子」で相当苦しんでいるのだけど、次女が家でも食べる子で「私の調理がマズい」とか「私の盛り付けが悪い」とか「私の雰囲気作りが悪い」とかいう私原因説は否定された。となると、要因はやはり子どもにある。

いわゆる「ガチャ」。

あまりその表現は好きではないけど、運と相性の問題でしかないと思う。

料理上手で料理好きで食を重んじて美味しい食事をたくさん食べてほしい思いの保護者の子が、理由もわからず食べない子だったら、保護者の方は料理への自信を無くすし子どもも食え食え言われて相互不和となる一方で、

料理はまぁ適当でいいよ何か食べてれば大丈夫でしょ、はいバナナどうぞ、というあっけらかんとした保護者の子が食べない子だったら食事を軸としては親と子の関係に何の影響もないわけで、

子どもがどういう特性をもって生まれてくるかは運だし、保護者がその運のもたらす結果に対して適応できるかどうかは相性の問題でしかない。

 

ちなみにうちの長女は、食べ物に対する警戒感が強いのかな、と読んでいる。保育園や小学校で、同年代の子どもたちとワイワイ同じものを食べるうちに、食材への警戒感も薄れていけば良いと思って、私は私で旬のものを味わい尽くせるように調理して食卓に並べるだけだ。まさか18-19になっても「今日カレーが良い。アンパンマンカレー」とか言うことはないでしょう。たぶん。

 

保護者と子どもというミクロレベルでも運と相性の問題が出て来る「子どもの躾」に関するトピックなんだけども、これが VS 世間様になるとまた様相が違う。

子どもの特性なんて千差万別だしそれに対応できる保護者もいるかいないかなのに、親は完璧に子どもをコントロールせよという圧力を感じている。

そらまぁ私と次女、次女と長女が手を繋いで歩く様子とすれ違うシニアたちはたいてい微笑みながら歩いていく。そこに圧力はなくて、微笑みの奥にはノスタルジーがあるんだろう。もう手を離れていった自分の子と、手を繋いでいたことを思い出しているんだろう。

さて一方で、場所がスーパーマーケットになるとまた話が変わるし、こちらは圧力を感じる場面となる。手を繋いでいるとはいえ、左手で買い物、右手で手つなぎでは子どもへの注意も行き届かず、他の買い物客の足元の邪魔になることも多い。今はコロナ禍の影響でスーパーに連れていくこともなくなってしまったけども *1 、思い返せば子連れでスーパーマーケットに行くことって大変でしかないし、世間様からの目線にグサグサと心をえぐられる一方なので、しばらく行かないでいいや。

 

しっかり親について回り、周囲を見回し他の客(自分)の邪魔にならない、見た目のよろしい可愛い子、

そういった「理想の子ども」が世間様の中にいるんだろうなーと思う。

 

もちろんその世間様の中には自分もいる。過去の自分もいるし未来の自分もそういう「理想の子ども」を描いていたんだし、描くんだと思う。だけど、今の私は現実の子どもを知ったので、うちの子はそういった理想の子どもではありません、ごめんなさいごめんなさいと頭を下げながら世間様のなかを歩いていくしかないんだった。

 

そして躾の行き届いた「理想の子ども」と現実の子どもの差よ。

確率の問題でいくと、理想の子どもへの要素がn個あるとし、各要素についてYesかNoか二択であるとして、各要素のすべてにYesとなるお子様が存在する確率は如何許か。nは自然数とする。

 

P(A) = (1/2) ^ n

 

ここで言う要素は、寝る寝ない、食う食わない、歯磨き嫌がる嫌がらない、奇声発する発しない、癇癪起こしやすい起こしにくい、トイトレEasy/Difficult、忘れ物するしない、自分で支度するしない、生活のすべての要素を当てはめていって下さって結構です。

上記一般式はだいぶ簡素化したものだけど、出てきた数字は「ねぇな」という感想の数字になると思う。

 

そもそも、子どもが無事生まれて育つまでにどれくらいの奇跡が必要か。

 

ここまで述べてきて結局何が言いたいか。

子どもは試行錯誤して成長していくもんだし、そもそもの生まれ持った性質も千差万別であるから、回り道したりショートカットしたり、発達の度合いも様々なのだし、一概に理想の子ども像を重視しすぎず、「へぇーこんな子もいるんだね」といったふうに、子どもが見せてくれた新しい世界をたくさんの大人で共有したいなと思っている。

 

私も私で「親、かくあらねば」に縛られていたこともあるし、今もなお解けていないステレオタイプがあるだろう。「へぇー」で済まされないものもあるだろう。

でも、こう考えることで自分を振り返り、見直したい考え方があれば見直し、思考の癖があるのかも、と思ったら読書をしたり、人と話して是正していき、そうやって「かくあらねば」から解放されていったらいいんじゃないかな。

 

というわけで今読んでいるのがこちらです。

 

ステレオタイプの科学――「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか

 

成熟した「理想の大人」にはいつになったらなれるんだろうな、と「理想の子ども」を考えて思った次第です。