いつか「おかえり!」と言って欲しいと、心が枯れるほどに願った俳優さんが結婚なさいました。おめでとうございます。そして、私の中の、戦いが終わった。
ありもしない未来を欲しながらテレビの向こうを見ていた自分に気が付いた。
今自分は配偶者もいて、仕事もあり、子どもたちもいるのに、どんなタイミングでか家を飛び出した先に土井善晴先生がオーナーのシェアハウスに入居することになって、そこに暮らす自由な人たちの中に暮らせる日がくるかもしれない、と夢想していた。
毎朝気だるく起きてくるのに夕方になると甘いお菓子の匂いをくゆらせ、「食べる?美味しいのできたよ」と屈託のない笑顔でスプーンを渡してくれる彼に、いつか出会えると思っていた。
有りもしない未来を心に描いて、毎日のしんどさをテレビの向こうに溶かしていたように思う。
彼は私のなかで、小さくて可愛い、甘酸っぱい、ほろ苦いマカロンのように存在していた。大事に大事につまみ上げて、食べようかな、食べまいかな、そうふわふわした気持ちを生じさせてくれる存在だった。
でも彼も彼で、普通の人間であり、仕事があり、家族があり、恋人があり、彼の幸せがある。誰かのマカロンであるなんてあり得ない。とんでもないことだ。
そう考えたら、私は彼が演じるキャラクターに期待し欲望をぶつける迷惑な存在でしかない。
今までファン心理というものがよく分からなかった。結婚報道のたびに「明日仕事休む」とかつぶやく女性の気持ちが分からなかった。へぇ、結婚したんだ。という程度だった。ショック受けてる人、大変だねぇ、そう思うのは私だった。
でも今日の夕方の私ときたら、何だ。
その時はちょうどタイムラインを追っていたので、彼のツイートから1分も経たないうちにLikeを押しリツイートした。そうやって彼のツイートを自分のタイムラインに取り込んだ。
この日が来てしまった。
ただ叫びたい気持ちでいたけど、まだ子どもたちも帰ってきていない在宅勤務の最中にその叫びを聞く人もいない。ぐっとこらえて、感情も抑えて、「ついにこの日がきた」とツイートした。
何千何万とある彼のフォロワーの中のただ一人の、小さなつぶやき。彼の心に届くはずもないノイズ。ノイズですらないかもしれないし。
届かないで真っ当なんだ。私の声は届かなくて当然。私はそういう存在だし、彼はそういう存在だ。
「彼はそういう存在だ」「私はそういう存在だ」
その当たり前に気づいたとき、私の内なる欲望との戦いが終わった。
いつかどこかで会えるかもしれない。
いつか自分のためだけに笑顔を向けてくれるかもしれない。
柔らかいけど細くて長い手と、握手ができるかもしれない。
そんなこと出来るわけないよ。
子どもたちが小さいからって理由をつけて、劇場にもいけないくせに。
あなたはただテレビの前で見てるだけの人だよ。
欲望と理性がいつも戦っていた。それに気が付いた。でも今日の夕方に、その戦いは終わった。
もう、ただひたすらに祝意を述べたい。そうするしかない。
下衆なマスコミが夫婦間の何かを報じようものなら、徹底的にdisりたい。むしろそういう報道に触れない生活を送る。
どうかどうか、幸せに。
そうこうしている間に夕飯を終えた次女がトイレの方を指差す。
トイレの手伝いをする。子どもが習慣を付ける手伝いをする。日常が進む。
子どもが育っていく。
ふと思った。
「これが私の幸せよ」
桜庭和志似の夫がいて、長女がいて、次女がいて、仕事があって、家族を守って、料理をして掃除をして、ブログを書いて、お酒を飲んで。これが私の幸せなんだ。
彼にも彼の幸せがあり、これから素敵なパートナーとともに素晴らしい人生を送ってくれるよう願う。「これが俺の幸せ」といえる瞬間が多いことを願う。もちろん彼のパートナーにも、そういう瞬間が多いことを願う。
どうかどうか、幸せに。
私も私で、どうかどうか。
幸せに暮らそう。
内なる欲望との戦いが終わり、自分の幸せに気づいた。
それでいい。それがいい。