私の/夜中の考えごと

働き方や子どもとの暮らし:夜中に考えていることを書いています

マウントとっても仕方ないのにね、とは思う

SNSで繰り返す「私のほうが大変」というマウント、疲れちゃうけどなくならない。仕方ないのにね、とは思う。

 

 

ただ私はなんか見ただけなので、当該ツイートを追ったわけでもないので詳しくはないけど、それ系の言説をのたまう人(アカウント)は、リプで反論しても何しても、意見を変えて謝罪だのツイート削除だのすることはほとんどない。

ツイッター歴10年ともなれば、様々の争いを見てきた。

140字以内でみんなよく戦えるものだ。むしろ140字だから、戦いになってしまうんだろう。

本題は別。

さてワンオペマウントについて思うこと、

ワーママ生活やワンオペ育児生活、自分の苦しさを逃がすために、他人の暮らしを見てしまいがち。

私が第一子のワンオペ育児を通して至った境地は「隣のイクメンはイケメン」。隣の芝生は青く見える、ということに、非イクメンの配偶者への複雑な思いを昇華させた。(これはイクメンの語があった2015-6年のこと)

他人と比べても仕方がない。

自分が辛いこと、頼れる実家が近くにないこと、上司の理解がなかったこと、通勤距離が長いこと、夫が早く帰ってくることもないし、夫が家事をしてくれるわけでもない、それらの「辛さ」を自分の中で「そんなもんだ」と落ち着かせられない自分の弱い心、その弱さへの気づき。

まず、そう気づいてしまったことに疲れる。

自分は完璧な存在であるべきだった。キラキラで完璧なママであるべきだった。いつも優しく微笑んで、美味しいご飯を子どもたちと囲む。仕事だって完璧にやりこなす。私は、そんなに完璧では、なかった。

 

私にとって、実家は遠いもの。上司は上司の世界があること。通勤距離は読書にでも充てればいい。夫は夫で仕事を通じて家族を守っていて、夫は夫で家事が苦手。そんなもんだ。

そんな中で自分は何をやるか。何をもって自分が幸せになるか。どうやって子どもを幸せにするか。

 

「そんなもんだ」と受け止めて、「それからどうする」と考えて、「どうやって幸せになる」と未来を描く。行動する。

 

このスキームをすっ飛ばして「あの人はズルい」と他人に牙を向けてしまうのは愚かしいことなんだ。

もしその人が不幸になったところで、誰が幸せになるのか。結局誰も、自分ですら幸せにできない方法で、自分の疲れを癒そうとしていた。

 

 

色々と考えまわって愚痴を言って、それでもなんとかやっていくんだ、私は私で幸せになるんだ。そう思った。比べても仕方がない。

そう気づいたって、未だに他所のお家が羨ましくなることがある。

 

 

実際どうすりゃええの、てことにもなる。

「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」でも再読しよう。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

おしまい。