SNSで繰り返す「私のほうが大変」というマウント、疲れちゃうけどなくならない。仕方ないのにね、とは思う。
タイムラインに #何か見た のだけど、
— ぼちぼち働け🍜たかえさん (@tk_e) 2020年2月14日
「私の方が大変マウント」は定期的に発生するし、マウント取ったひとはどんなリプがきてもマウント取ってすみませんでしたとか言わないので
あなたの心のまま過ごすといいよ
(ミュート、ブロック、またはウォッチのためのフォローもあるよ)
ただ私はなんか見ただけなので、当該ツイートを追ったわけでもないので詳しくはないけど、それ系の言説をのたまう人(アカウント)は、リプで反論しても何しても、意見を変えて謝罪だのツイート削除だのすることはほとんどない。
ツイッター歴10年ともなれば、様々の争いを見てきた。
140字以内でみんなよく戦えるものだ。むしろ140字だから、戦いになってしまうんだろう。
本題は別。
さてワンオペマウントについて思うこと、
ワーママ暮らしをする中で「実家が頼れる」ひとにうらやましさしかなくて、そのうらやましさ自体が自分の中で負の感情になっていったのが不快だった
— ぼちぼち働け🍜たかえさん (@tk_e) 2020年2月14日
その不快感を当該ひとにたいする不快感とはき違えてはならない
ワーママ生活やワンオペ育児生活、自分の苦しさを逃がすために、他人の暮らしを見てしまいがち。
私が第一子のワンオペ育児を通して至った境地は「隣のイクメンはイケメン」。隣の芝生は青く見える、ということに、非イクメンの配偶者への複雑な思いを昇華させた。(これはイクメンの語があった2015-6年のこと)
他人と比べても仕方がない。
自分が辛いこと、頼れる実家が近くにないこと、上司の理解がなかったこと、通勤距離が長いこと、夫が早く帰ってくることもないし、夫が家事をしてくれるわけでもない、それらの「辛さ」を自分の中で「そんなもんだ」と落ち着かせられない自分の弱い心、その弱さへの気づき。
まず、そう気づいてしまったことに疲れる。
自分は完璧な存在であるべきだった。キラキラで完璧なママであるべきだった。いつも優しく微笑んで、美味しいご飯を子どもたちと囲む。仕事だって完璧にやりこなす。私は、そんなに完璧では、なかった。
私にとって、実家は遠いもの。上司は上司の世界があること。通勤距離は読書にでも充てればいい。夫は夫で仕事を通じて家族を守っていて、夫は夫で家事が苦手。そんなもんだ。
そんな中で自分は何をやるか。何をもって自分が幸せになるか。どうやって子どもを幸せにするか。
「そんなもんだ」と受け止めて、「それからどうする」と考えて、「どうやって幸せになる」と未来を描く。行動する。
このスキームをすっ飛ばして「あの人はズルい」と他人に牙を向けてしまうのは愚かしいことなんだ。
もしその人が不幸になったところで、誰が幸せになるのか。結局誰も、自分ですら幸せにできない方法で、自分の疲れを癒そうとしていた。
「あなたは実家が頼れるからいいじゃないですか」「あなたは地域サービスが手厚いからいいじゃないですか」「あなたはパートナーが頼れるからいいじゃないですか」
— ぼちぼち働け🍜たかえさん (@tk_e) 2020年2月14日
そう人に向けた僻みの感情は、同じ熱量を持って自分に返ってくるんだろうなって
「在宅勤務が選択できるからいいじゃないですか」「手のかからない子でいいじゃないですか」「保育園近いからいいじゃないですか」
— ぼちぼち働け🍜たかえさん (@tk_e) 2020年2月14日
みたいなね、
みんながみんなそれぞれ大変の種を持っているのだし
比べて何か答えが出てくるもんでもなし
色々と考えまわって愚痴を言って、それでもなんとかやっていくんだ、私は私で幸せになるんだ。そう思った。比べても仕方がない。
そう気づいたって、未だに他所のお家が羨ましくなることがある。
それでも私は実家が頼れる人、夫が頼れる人がうらやましいお
— ぼちぼち働け🍜たかえさん (@tk_e) 2020年2月14日
うらやましいという気持ちを抑えることができないよ
そういう意味で修業が足りない
自分の心を静め、すべての人を愛したい
はやく達観したい
むしろ解脱したい
実際どうすりゃええの、てことにもなる。
「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」でも再読しよう。
おしまい。