ほぼ黒ワンピース生活

ほぼ毎日黒のワンピースを着ています。考えたことなどあれこれと。

離婚届をシュレッダーにかけた

3年ほど前に夫に渡していた離婚届をシュレッダーにかけた。

去来する思いをしたためる。

 

夫との価値観の違いや性格の不一致、性生活への不満や育児負担の偏りに憤り、家出もしたし、離婚届も渡していた。

結局毎回毎回、「離婚したくない」と言われるも、明確な理由も述べられないままであった。

しかしこの度、私は署名捺印済の離婚届をシュレッダーにかけた。

 

本当にもう別れたかった。彼のことが嫌いだ。彼と生きることが苦痛だ。子どもたちを連れだして母娘で暮らす。

シングルマザーになること、しかも障害者が、如何に苦難の道か分かっていてもそちらを選びたかった。

だって私は彼のせいで失った。エキサイティングで楽しかった仕事も、正社員の職場も、年収も。もっと育児に歩み寄ってくれたら良かったのに

逆に考えたこともあった。私が彼の年収とキャリアを支えていると思えば、彼の「二児のパパです☆」のステータスを支えていると思えば、そしてそのおかげで不自由なく暮らさせてもらっていると思えば、そのまま耐えろ。というか、そう思わなければ暮らせなかった。

 

矢先に彼は「転職する」と言い出した。

転職活動自体は応援すべきものだったが、いざ内定が出た企業は九州の企業だった。

「引っ越そう」

 

仕事を手離し住む場所を変える。

ただそれだけのことだけど、仕事は貴方のものだが、その仕事は私も支えてきたものだ。仕事を手離すということは、私が支えた日々を無にするに等しい。

そして引っ越すということは、私がこの場所で積み上げていったものを崩すということだ。保育園や小学校では挨拶をかかさないように努め、わずかばかりしかない社交力を振り絞って少しずつ築いたもの。それがなくなるということだ。

眼前がホワイトアウトする。私は失って、貴方が得たものや、私が築き上げたものを手離すのか、手離させるのかと。

子どもたちもやっと新しい環境に慣れてきた。特に小学校1年生の長女。学校こそ自発的に行き友達も多く、しかし英語塾やダンスレッスンには涙をにじませて行き渋り、それもやっと和んできたときだった。登校班の連絡もPTAの組織にもやっと馴染んできた。保育園からのおともだち家庭との連携もスムーズに、小学校を含めた地域生活が充実してきたところだった。

そして次女も。保活を生き延びてやっと得た保育園なのに。そして、引っ越すとしてどの自治体も3歳児の枠に空きはほとんどないのに。転校や転園の手続きだって私に丸投げするのだろうに。

 

ここ数カ月、それはそれは嵐の中のような感情を味わった。

ひとり親でも娘たちを養いたい。養育費は請求可能だろうがそれに依存せずに暮らしたい。そう思い、再就職を見据えてエージェントに複数社登録した。物件を探した。市のひとり親世帯への生活支援を調べた。

いよいよ別離を願って証拠集めをした。されて嫌だったことを書き留めた。離婚事件に強い弁護士を探した。

 

イライラしていた。不機嫌だった。あちらもそうだったし、お互い様である

 

埋まらざる溝ができたと私は思っていた。結婚9周年の日はお互いに忘れていた。来年だったら「スイート10ダイヤモンド、もらいそびれちゃうな」と惜しんだかもしれない。でももうどうでもよかった。次の記念日を欲していた。「離婚した記念日」を求めていた。

 

アクションしてみて分かったことが複数ある。

まずは再就職。とても無理だった。子育てでのキャリア挫折はあれど、フリーランスでつないだ経歴が評価されただけ学びはあった。リモート可能な職務もあるが企業は基本的に出勤が前提だし、リモートワークにキャパが広い特許事務所は資格要件がネックだった。

そもそも、40歳子持ち女性が入るスキがない。

「この案件は若い方を求めてらっしゃるようですが、一応ご紹介しますね」

zoomの先からのエージェントの何の気ない言葉に、私が超えられない壁があることを知った。

 

次に物件探し。

再就職も難しく、障害年金も受給していない、とにかく稼ぎのない女性が入居できる物件はゼロだった。あっても育児に向かない物件のみで、確かに、1LDKくらいで大丈夫です、という世帯は一人暮らしか子どものいないカップルだろう。健康な大人たちだけで住む前提の作りだった。

一軒だけ内見に行った。「狭いね」「ちょっとくさい」はしゃがない子どもたちを見るのは久しぶりだった

広くてきれいで住みやすい家で子どもたちと暮らしたい。でもそれは、私だけでは無理だった。

 

再就職と物件探しだけで、もう随分と私の心は挫かれていた。

結局これは、自分の無力さをひとつひとつ確認する作業だった。

 

一方で、彼が転職を企図した理由はどれも納得がいく。

クソみたいな上司。クソみたいな取引先。むちゃくちゃな出張スケジュール。休みの日だって社用スマートフォンに電話が来る。とにかく家にいられない。子どもたちの成長に寄り添えない。そんな環境からは抜け出すべきだ。

でも私は私で、そう彼が家にいられない状況を埋めるべくやってきた。仕事も手離したし地域ボランティアの手を借りて生活を維持してきた。いないならいないなりにやっていきます。そうやって切り開いていったのに。もう貴方は好きな仕事だけしてればいいのに。

「今更なんなの」

ひどい言葉だとは思う。が、彼にそう投げつけないと気持ちのやり場がなかった。

 

今こうも心が荒れて、現状に執着して、固執して、自分の醜さもよくわかる。無力なくせに言うことだけはデカくて、自分のことながら辟易する。醜い。

よっぽど自分の方がクソみたいだ。

 

そんな中で離婚案件対応の弁護士と法律相談のアポイントが取れた。

状況の説明をし、モラハラとセクハラの記録を見せ、別居をするのならばそれに係る婚姻費用はこう取り決めて、あちらが離婚に応じないのならばこちらものらりくらりと別居を続けたらいい。三年の別居で夫婦関係の破綻が認められ離婚成立する場合もある。

のらりくらり、そうだ、のらりくらりしてもいい。

今いる嵐をやり過ごして、のらりくらりと相手の要求をかわしながら暮らすという人生だってある。

 

そう思い至ったら、もうなぜか何もかもどうでもよくなった。

「どの選択をしても生きる道はある」

法律相談で得たメタの認知はそれだった。

 

そうですね、どの選択をしてもどうにでも生きられるのだから、

もう、新しい環境をどれだけ楽しめるか、そちらにエネルギーをかけるほうが健康なのだろう、そう思い至った。

 

転居して後も、またその地域で借りられる手を探せばよい。子どもたちはどこに行っても好かれる子たちなのだし、友だちもすぐにできるだろう。「じゃあ行ってくるね」と私を置いて出かけていくだろう。

広いベランダでアサガオを育てて、少しのベランダ菜園をして、季節を感じながらのんびり暮らすのもありだろう。はて、地域の精神科には双極症を診られる医師はいるだろうか。そうだ、九大病院の精神科に現主治医から紹介してもらおう。

あれこれと考えるうち、

 

「よくなるように生きよう」

 

そう思った。すーっと、嵐が凪いだ。

 

引越しに向けて諸々の手配をする。部屋を片付ける。この家をかたち作ったものがどんどんと粗大ごみになる。ため込んでしまっていた書類がシュレッダーにかけられていく。

シュレッダーにかけるものはここに入れてね、と渡しておいたファイルボックスがいっぱいだったのでシュレッダーにかけた。

 

渡していた離婚届が出てきた。まだ「捺印」が必要な頃のフォームだった。それをシュレッダーにかけた。吸い込まれていき、紙屑になった。

 

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これから先も、なんのかんのと衝突はあるだろう。

 

それでも、どういう選択をしても、生きる道はある。私はそれだけの知恵を身に着けている。よくなるように生きる、そういう選択が私にはできる。

 

「よくなるように生きよう」

そう思いながら、残りの書類もシュレッダーにかけ、家財を段ボールに詰めている。